Paul-Laurent Assoun「ラカン」2003
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「私は何を知ってゐるのか (Que sais-je?)」から「君は知ることができる」へ
「敎育しようとするならば、分析的な discours によって、精神分析家が被分析者の位置に導かれなければなりません。見かけとは違って、精神分析では支配できるやうなものを何も作らないようにしなければなりません。さうでなければ症狀になってしまひますから」 鏡像段階とは、運動を司る神經系が統合されてゐないのに、「子供が鏡の中の像をみずからであると認める」ことである。 貼り合はせ
器官の局所性
鏡の經驗は、「純粹に想像的なもの」が存在することを裏附けるといふ「倒錯的な效果」をもたらす。その結果、自我は同一化により完全にできあがる。 二重の imago
攻撃性は、鏡像の裏面に潛んだ非-自我の中に、「身體的な解體の image」、「バラバラにされた身體の imago」といふ形で記入されてゐる。つまり、「攻撃性は、主體の生成において、われわれが narcissistic と呼ぶ同一化と結びついた緊張感のことである」。
成-自己愛。Selbstliebe
D←Ps
嫉妬
「嫉妬は rival 關係に由來するのではありません。嫉妬を作るのは心理的な同一化です」。乳離れして閒もない子供は、その兄弟が乳を飮んでゐる光景を見ると、享樂 jouissance と憎惡 jalouse の入り混じった享惡 jalouissance とでも呼べる感情が喚起される。 phallus
「主體は signifiant との關係においてしか決定されない存在であるため、phallus は缺如としての機能を有してゐるのです」。 $ -\phi=\Phi.
文字 (lettre) の審級
辞-元 (dit-mension)
失念は夢の場合と同じやうに綴じ繪のやうな隱喩の效果であり、文字や圖畫表現と同じである。したがって、失念は「hieroglyph」が讀解されるやうに無意識 (Ubw)の效果として讀解されなければならない。 lalangue はもはや「無意識 (Ubw) (ウンベブステ)」の槪念の問題ではなく、フランス語を母語とする地域におけるあらゆる「些細なこと (ベブ)」を射程におさめる原初的事實の問題である。 ララシオン
母國語として最初に獲得される乳児の發語
享樂 (jouissance)$ \simeq私が意味を聞く (j'ouie sens) Y'a d'l'Un (ひとつがある。一者がある)
父の名 (ノム・デュ・ベール)
欺かれぬ者はさまよふ (ノム・デュップ・エロン)
出家
父の隱喩 (父性隱喩)$ \frac{父の名}{母の欲望}\cdot\frac{母の欲望}{主體にとっての{\rm signifié}}\to父の名\frac{(A)}{\rm phallus}
象徵的な父は、「はっきり言へば思考不可能である」。象徵的な父は、父の名のうちに殘存してゐるが、その名を口にすることはできない。
象徵的な父など存在しない。象徵的な父は、あくまでも機能としてしか存在しないのである。
「母と寢る父である」。
息子にとって母が滿足するといふ事態は不安を引き起こす。その不安を象徵的な父が取り除いいるのである。
$ \cancel A.
欲求不滿
現實の對象が想像的に缺如してゐる$ R\backslash I
疎外$ \frac{A}{\cancel S}
欲求不滿の執行者は象徵的な母である。と言ふのは、母が行ったり來たりすること、つまり母の在・不在の振り子こそが、欲求不滿を作り出してゐるからである。
剝奪
象徵的な對象が想像的に缺如してゐる$ S\backslash I
「象徵的な對象が現實的に缺如してゐる$ S\backslash R」の誤植か???
「想像的な父」は、剝奪の執行者 (agent。因A) である。剝奪によって、象徵的な對象が現實的に缺如するのである。 想像的な對象が象徵的に缺如してゐる$ I\backslash S
分離$ \frac{a}{\cancel S}
「現實的な父」は、生產者であり、去勢の執行者である。想像的な對象が象徵的に缺如する。 「無意識 (Ubw)といふ假說は、父の名を想定することでしか根據を持つことができません。これは Freud が強調してゐることです。父の名を想定することは神を想定することと同じです。父の名を用ゐることで、神を持ち出さなくても良くなるのです」。 「父の名は相違を生み出し、大文字の他者は永遠に享樂の位置に置かれます」。 固有名
固有名詞は、單數の存在を表はすといふより、ある穴を覆ひ隱す機能を持ってゐる。つまり、固有名詞は「置き換へ不可能」であるのと同時に、「空っぽな」ものである。
固有名詞は「一なる徵」に歸すことができる。
症狀は「現實界における象徵的なものの效果」として表現される 袋小路
大文字の他者$ A
場所 (lieu (リユウ))。理由
場 (place (プラス))
「大文字の他者は、わたし ju が構成される場所です。私は、私に耳を傾ける者と語るのです」。
臟物占ひ師
しるし
子供は鏡の中 (想像界) に「大文字の他者の眼差し」、言ひ換へれば (父性的な)「大文字の他者の承認」の印を求めてゐるのである。そして、主體が「最初の印を受け取る」のは、「對象關係」によってである。 眞實の證人
一なる徵
「同一化は部分的で、非常に限定されており、人物-對象の一つの徵を借りてゐるに過ぎない」
この時、Freud は單に「das Andere」と記載せずに「der Andere」と記載した。これは、「われわれの中にある異物の斷片」としての他者を表してゐる。つまり無意識 (Ubw)である。Freud の「集團の心理學」の特徵は、まさにこの點である。つまり、他者は、理想化と同一化の姿である。「個人の心的生活において、他者 (der Andere) は、model として、對象として、あるいは助けとして、敵對者として、定期的にやってくる」。これが、個人から集團を記述する際の重要な點である。 「集團的な組織化や取り込みの領域には、欲求といふものはありません。一なる徵とは、すなはち大文字の他者の承認の印です。この小さな印が機能するためには、主體が大文字の他者と遭遇するだけで充分です」。
code が書き込まれてゐる
身體
しかし一方で、大文字の他者は身體に見出だされる。
不安は「大文字の他者の欲望の感覺」である。「缺如が缺如する」とき、別の言ひ方をすれば、主體が缺如にみづからの支へを得ることが一時的に不可能となったとき、不安が生じる。大文字の他者が自分の似姿ではないと感じるときに、人は不安になるのである。
「大文字の他者の享樂」は、「phallic な」享樂と對をなしてゐる。つまり、大文字の他者の享樂とは、女性の (相補的ではない) 餘分な享樂である。 phallic mother (男根母)
食
剩餘享樂
欲求 (ブワゾン)。要求 (ドウマンド)。欲望 (デジール)
大文字の他者を定着させるのは、愛の要求との關係である。
欲求は生物學的な次元のもので物質的なものである
要求とは、欲求が滿足されるときに大文字の他者に向けて生じるものであり、無限のものである。
主體は欲求の滿足を越えたところで要求する
「人が語るといふ事實によって、要求は人閒の欲求の迂囘路です。と言ふのは、欲求は要求に從屬しており、欲求は要求から疎外されて囘歸するからです」。
「欲望は無制限な要求を、完全な條件へと置き換へるのである」。
大文字の他者によって、主體は「汝何を欲するか (ケ・ヴオワ)」といふ疑念の位置に置かれる
欲望の原因となる對象
主體は、原初的 fantasme (原幻想) において、乳房や糞便、phallus といった對象として現はれる。
$ \cancel S\lang a\rang A.
$ \braket{\cancel S|a|A}???
對象の交換を支へてゐるのが、phallic な對象であるとすれば、「小文字の a は大文字の他者から phallus を引き算したものである」。
口唇的な對象は、他者への要求の對象
肛門的な對象は大文字の他者の要求の對象
視覺的な對象は大文字の他者への欲望の對象
眼差しの對象
聽覺的な對象は大文字の他者の欲望の對象
聲の對象
libido は「缺如する部分」、あるいは「非現實の」器官と同一視される。 無 (rien。リヤン)
主體は、享樂の他者 (つまり身體$ A) と langage の他者 (つまり「語る主體 (パレートル)」の享樂$ \cancel S) のあいだに挾まれたものである。
愛
「あなたは、私が送るものを拒絕してください。なぜなら、私が送るのは、それ、つまり〈對象 a〉ではないからです」。 要求は、提供されるものに對してあまりにも巨大であり、拒絕することで、要求としての他者に向かって囘歸する。
時閒
それを見る時閒
第一の時閒では、主體は「人は知ってゐる l'on sait que」の「人 on」のやうな非人稱の主體であり、意味を付與する (ノエティック) 主體である。
理解する時閒
第二の時閒における主體は、主體的な主張として表される個人的な知の主體である。これは心理的な私の本質をなす理論的な主體である。
結論を出す時閒
第三の主體は行爲の主體である。いはゆる無意識 (Ubw)の主體が明らかにされるのは、行爲によってである。 貴族の庶子を表す斜線$ \cancel S
「理解することを愼みなさい」
神經症的袋小路とは、要求と欲望の乖離であると定義される。神經症者は「他者の影響下」にあり、「神經症者は大文字の他者が去勢を要求してゐると想像してゐる」。したがって神經症者はたゆむことなくみずからが phallus を所有してゐないことを示し續けなければならない。しかし、かうした犠牲の理論と竝列して、みずからの欲望が被った被害について不平をもらすのが神經症者である。 hysteria 者は、大文字の他者の欲望、あるいは決して滿足させられない欲望を持ちたいといふ欲望にとらはれてゐる 強迫神經症者は、絕へず大文字の他者の要求の指示を取り附けようとしながら、(最後に) この大文字の他者が破壞されるのを望んでゐる。強迫神經症の主體は、みずからの欲望が異質なものであると感じてゐる。強迫神經症者においては、不可能な欲望といふ形式が禁止によって支へられてゐる。 恐怖症は、そこに豫見された欲望のかたちを附け加へる。 倒錯者は、享樂の他者の役に立たせようとみずからを用ゐる者のことである。 「倒錯者は、享樂を確實なものとするために、みずからが大文字の他者であることを想像する」。 一方で、「fetish」は、「欲望の完全な原因」を備へた對象であるとされる。
症狀 (symptôme)
聖なる男 (saint homme)
分析家
「分析家はみずからの行爲を怖れてゐます」
統治 - 政治
分析家の態度は、しばしば「閉じた顏に、縫ひ合はされた口」と形容される。
「知ってゐると想定される主體を無視すること」
「精神分析において最後の段階で作用するのは、分析家の欲望です」。 分析の目的 (ファン) は、その終はり (ファン) になって決定される
「分析作業の本質的な原動力は、想像界と a との距離を維持すること」 「分析家が a といふ分離機を支へるためにはみずからの價値を下げなければならない」。
「分析とは、知ってゐると想定される主體が凋落し、その場所に主體の分裂の原因とされる對象 a が到來することによって成り立つのである」。つまり、分析が成立するときには、被分析者の主體が「罷免」されてゐる。「ありのままの對象 a は、被分析者が對象 a をみずからの欲望の原因と認めることによって空っぽになっていくのである」。これは被分析者の側から見ると、症狀へと同一化することである。つまり「症狀と附き合ひ、症狀と折り合ひ、症狀を操る方法を知ることである」。 「分析にとって本質的なことは、被分析者が意味作用のかなた、還元不可能で意味を持たない 外傷 (Trauma) 的な signifiant まで到達することである。被分析者は患者としてそれを遂行する義務を負ってゐる」。 「分析家は、そこで症狀として立ち現れます。分析家は症狀といふ形でしか存續することはできません」。 es を追い出したところにしか、自我はやってこない 無意識 (Ubw)の眞の主體は、阻害を引き起こす同一化の核を追い出すことによって得られた「存在の場」から「生まれる」のである。